2007年3月26日月曜日

Web2.0の落とし穴

Yahoo!知恵袋」や「教えて!goo」の利用者が急増しているそうです。(参照
ウィキペディアも「Yahoo!知恵袋」や「教えて!goo」と同様に、
Web2.0系(ユーザー参加型)サイトです。

「教えて!goo」のシステムでは、
質問者が「良回答」を選ぶと回答は締め切られます。
質問者が満足する回答が寄せられればそれでよい、と考えることもできます。
しかし、回答は質問者だけが見ているのではありません。
多くの人が回答を参考にしています。
そこで、とんでもない回答ばかりで回答が締め切られると、
問題が起きることになります。

たとえ話をしてみましょう。
質問「ダイエットのため粉ミルクだけで生活しても問題ないですか?」
回答1「赤ちゃんはミルクだけで育つから問題ないですよ」良回答10pt
回答2「ミルクは総合栄養だし、ミルクだけ飲んでダイエットに成功した人もいるようですよ」良回答20pt
回答締め切り。

実際は、粉ミルクだけでは十分なカロリーを摂取できないので、体調を崩しかねません。
回答が締め切られなければ、そのような指摘も出たでしょうが、回答が締め切られれば危険な情報が保護される結果となります。
このような問題を解決するために、「Yahoo!知恵袋」では「この回答が不快なら」の通報のシステムを導入しています。
しかし、十分に機能していない可能性が高いように思います。

掲示板は、Web2.0の元祖です。
掲示板の機能に「締め切り」のシステムを導入し進化させたものが、
「Yahoo!知恵袋」や「教えて!goo」であるともいえます。
この「進化」によって上述のような問題が出てきます。
ひるがえって、ウィキペディアではどうでしょうか?
本来、ウィキペディアのシステムは、「良回答」をさらに「良回答」に高めるシステムです。
しかし、「保護」や「半保護」の乱用は、
「Yahoo!知恵袋」や「教えて!goo」の「締め切り」システムと同様の効果を持ちます。
日本語版の「保護」や「半保護」の乱用は、ウィキペディアの価値を減殺しているように思えます。

保護・半保護の解除

昨日、「知的障害」の項目を取り上げました。
そして、この項目が「保護」されていることについてふれました。
きょうは、ウィキペディアでよく見られる「保護」や「半保護」について考えてみることにします。
保護の場合、記事の冒頭に枠囲みで、以下のように表示されます。

保護:このページ「Wikipedia:○○」は、荒らしや編集合戦などを理由として、保護の方針に基づき編集保護されているか、あるいは保護依頼中です。現在の記述内容が正しいとは限りません。保護されている場合はノートで合意を形成した後に、保護の解除を依頼してください。

「保護」や「半保護」は日本語版ほど多くありませんが、英語版でも見られます。
英語版の場合、以下のように表示されます。
This page is currently protected from editing until disputes have been resolved.Please discuss changes on the talk page or request unprotection. Protection is not an endorsement of the current version. (protection log)
(日本語訳:紛争が解決されるまでの間、このページは一時的に編集から保護されています。ノートで変更を討議するか、保護解除を申請してください。 保護は現在の版を是認するものではありません。保護に至った経過)


英語版に慣れた者からすると、日本語版の記載は奇妙に感じられます。
英語版では、「保護は現在の版を是認するものではありません」と表明します。
保護は、しばしば編集合戦の最中に介入し、介入時点の版を一時的に固定するものです。
したがって、編集合戦の一方の当事者には不本意な版で固定されることを意味します。
このことについての説明が、「保護は現在の版を是認するものではありません」なのです。
管理者の中立性の立場が鮮明に表明されています。

一方、日本語版では、「現在の記述内容が正しいとは限りません。」と記載されます。
「現在の記述内容が正しいとは限りません」は、保護(または半保護)されているいないにかかわらず、
全てのウィキペディアの記事について言えることです。
日本語版ウィキペディアの保護ページ説明は、編集合戦の当事者に対する管理者の立場の表明であるのか、
一般の読者に対する注意喚起なのか判然としません。
保護(または半保護)とする権限を持つ管理者が、その権限の重大さに気づいているのか疑問です。


保護(または半保護)は緊急避難的な措置であり、
その行使は最小限にとどめられる必要があります。
英語版ではそのような配慮がなされています。
ところが、日本語版では、「保護されている場合はノートで合意を形成した後に、保護の解除を依頼してください。」と、
高いハードルを設定します。
立場の違いがある場合など、いくら議論しても合意に至ることはないでしょう。
そもそも、議論そのものが成り立たないでしょう。
なぜなら、保護(または半保護)は当事者のどちらかに不本意な状態で固定されています。
これは、一方の当事者にとっては、好都合な状態で固定されていることを意味します。
一方の当事者には、ノートでの議論に参加するメリットはないのです。
「保護されている場合はノートで合意を形成した後に、保護の解除を依頼してください。」は、
現実問題としてとても高いハードルといえるでしょう。


以上のことを、「知的障害」の例に即して具体的に見てみましょう。
発端は、「知的障害を知障(ちしょう)と略し、これに池沼(IMEでの変換が可能なため)の文字を充てる表記も見られる」という2006年4月11日 のYukarin氏の加筆でした。
この加筆について、加筆と削除が4月15日までに5回繰り返されています。
そして、2006年4月15日に保護の措置が取られています。
保護の後、ノートでは散発的な書き込みがあるだけで、
当然合意には至っていません。
したがって、ほぼ1年経とうとする現在まで「保護」のままです。


ところで、当事者であるYukarin氏は、2006年4月21日に無期限ブロックの措置を受けているようです。
つまり、ウィキペディアの執筆禁止措置が取られているのです(参照)。
そうであるなら、2006年4月21日の時点で、「荒らしや編集合戦」による「保護」の必要性はなくなったと考えられます。
「保護」の必要性がないのは明らかなのに、延々と「保護」が継続されているのです。
もし、日本語版の管理者に「保護」が緊急避難的なやむを得ない措置である、
との認識が多少なりともあるのならば速やかに保護は解除されたでしょう。
そのような認識がないのは、日本語版の問題です。


昨日のブログにも書きましたが、ウィキペディアは今や社会的な公器となっています。
「現在の記述内容が正しいとは限りません」と居直りながら、
ウィキペディアが自らの利益を守るために、
公益を犠牲にすることは許されないでしょう。

2007年3月25日日曜日

お気軽編集は偏見を助長するおそれがある

ウィキペディア(Wikipedia)の項目「知的障害」は、秀逸な記事に選ばれています。
その「知的障害」の記事には、2004年5月23日版以来、見出し項目「知的障害者関連の犯罪」がもうけられています。
2004年5月23日版は、ここです。

まず、「障害者関連の犯罪」が「公的支援」の中で説明されていることに、違和感を感じます。
上記初出の記事は、公的支援の低下により、知的障害者が犯罪の被害者や加害者となるリスクが高まっている、という趣旨なのでしょうか。
いずれにせよ、公的支援として、障害者手帳についての1行の説明しかないのに、「障害者関連の犯罪」に大きなスペースが割かれるのは、
バランス感覚の欠如した編集といえるでしょう。

2004年6月12日の版では、「社会における現象」の中で「知的障害者関連の犯罪」は、説明されるようになります。
2004年12月29日の版では、重大な加筆が行われています。
すなわち、「元議員山本譲司は、不正受給問題で懲役刑を受けた時の体験から獄窓記という書籍を出版し、刑務所内の知的障害者の比率が一般社会と比べて異常に高いと指摘している。」との記述が登場します。
この記述については、2006年4月15日の版でようやく、
「しかしながらこれは知的障害者が犯罪へと追い込まれる社会的条件によるものであり、本来知的障害と犯罪は無関係なものである。 」
との注記が加えられました。

今回は、上述の記事について、考えてみることにします。
一つ目の問題は、山本譲司の言説を根拠に、受刑者に知的障害者の比率が高いとしている点です。
個人の主観的言説を根拠に社会的事情を説明することは、非常に危険です。
ウィキペディアの編集方針に照らしてみても、山本譲司の言説は「受刑者に知的障害者の比率が高い」根拠にはなりません。
つまり、根拠のないことをもとに、「受刑者に知的障害者の比率が高い」という判断を下していることになります。
後述するように、このケースではたまたま「受刑者に知的障害者の比率が高い」という事実は裏付けられますが、
結果さえあっていればよいと言うものではないのです。
ウィキペディアが、偏見や差別を助長する体質を持っていることを指摘しておかねばなりません。

さて、それでは「受刑者に知的障害者の比率が高い」というのは、事実なのでしょうか。
この問題に対する答えは、二つの政府文書の中に見いだせます。
「心神喪失者・心身耗弱者と認められた者の罪名・精神障害名別人員」についての統計が『犯罪白書』に掲げられています。
この資料では、障害の種類の中に「知的障害」が挙げられています。
また、『矯正統計年報』には、新入所者に対して行われた知能検査の結果が示されています。
特に、後者の資料ではIQ69以下の比率は1/5以上となっています。
「知的障害」は、健常者に対して実刑を科せられる比率が相当に高いと言えるでしょう。

上記の資料からみると、「受刑者に知的障害者の比率が高い」というのは、事実であると考えてよいでしょう。
そこで、問題となるのが、この事実をいかに伝えるかということです。
現在のウィキペディアには、
「しかしながらこれは知的障害者が犯罪へと追い込まれる社会的条件によるものであり、本来知的障害と犯罪は無関係なものである 」
との注記が付されています。
この注記は、必ずしも説得力のあるものではありません。
「本来知的障害と犯罪は無関係」と表明していますが、その根拠は明かでありません。
「受刑者に知的障害者の比率が高い」という「事実」と、
「本来知的障害と犯罪は無関係」との説得力に欠ける表明が併記されているのが現状です。
これでは、「受刑者に知的障害者の比率が高い」という「事実」が強調されて読者に伝わるおそれがあります。

この問題は、福祉やとりわけ司法のあり方と深く関わっています。
全ての犯罪が検挙されるわけではありません。
検挙された全ての事案が起訴されるわけではありません。
有罪となった全てに実刑を科せられるわけではありません。
実刑を科せられる者の中に知的障害者の比率が高くても、必ずしも知的障害者による犯罪比率が高いことを意味しません。
知的障害者の「犯罪」についてその内実を詳しく検討しなければ、
知的障害者と犯罪の関係は正確に言えないのです。
「受刑者に知的障害者の比率が高い」という「事実」は、重大な事実ですから、
この問題を取り上げるのは意味があります。
しかし、それは「知的障害者」の項目の中に収まるほど、簡単な問題ではないのです。
お気軽評論家気分で書かれた記事は、社会に害毒を流します。
もし、この問題を取り上げるのであれば、別項目を立てて本気で取り組むべきでしょう。

付言私から見ると、「知的障害」は問題点をはらんだ記事ですが、現在、「編集保護」されています。つまり、加筆修正できない状態に置かれているのです。いかなる事情があったにせよ、現在の記事が「保護」されることによる社会的利益はないように思われます。「編集保護」は、ウィキペディアの利益を守るために、社会的利益を犠牲にしているといわねばなりません。

本稿執筆時の「知的障害」の版

2007年3月23日金曜日

ある著作権侵害事件

2004年7月7日、項目「タレ」はめでたく「秀逸な記事」に選定されました。
その経緯は、ここにあります。
推薦から2ヶ月弱の間に、「おもしろい」などという軽いノリの評価が3件集まっています。
「おもしろい」ことと秀逸であることは必ずしも同一ではないはずですが、
「おもしろい」ことは秀逸であるための一要素ではあるでしょう。

ところが、その年の内に百楽天氏の盗作疑惑が浮上します。
その後の経緯については、ここで見ることができます。
「タレ」については、初版もしくは実質初版が百楽天氏の執筆ということで、削除されてしまいました。
現在、確認できるのは、百楽天氏が並はずれた執筆活動を展開し、
その少なくない記事に盗作が含まれており、
百楽天氏の関係した記事が削除されたという事実だけです。

百楽天氏事件は2つの問題を提起するものでした。
一つは、「タレ」を「秀逸な記事」に選定してしまった選定のあり方です。
削除するような記事を掲載したこと、さらにそれを「秀逸な記事」に選んだことについて、
私の知る限りウィキペディアは何らその責任を表明していません。
つまり、ウィキペディアとしての反省がないのです。
反省のないところに改善は望めないでしょう。
2004年当時と較べると、現在の選定には、より多くのシビアな目が存在していることは事実です。
しかし、選定の基本的スタイルは同じであり、同じ誤りを繰り返すおそれがあるように思います。

二つめは、著作権の保護をどのように保証していくかという問題です。
百楽天氏はたまたまビッグオーサーだったので、問題が表面化しました。
しかし、小百楽天氏はむしろ多数派なのです。
大げさに言えば、日本語版ウィキペディアは盗作執筆の集合体です。
そもそも、百科事典記事の大部分は執筆者のオリジナルな知見に基づくものではありません。
また、オリジナルな知見を記事として表明できる執筆者は、ごくごくまれです。
そうであるならば、出典・参考文献の明示は不可欠なのですが、
ウィキペディアでは出典・参考文献の明示されない記事が氾濫しています。
2ちゃんねるでは一般的に周知の知見以外の事柄が書き込まれた場合、
しばしばソースを求めるレスが付きます。
一方、堂々と著作権を侵害する記事が氾濫し、
それに対して有効な対策の打てないウィキペディアは、2ちゃんねる以下であり、
より悪質といわれても仕方のない側面を持っているように思われます。

2007年3月22日木曜日

秀逸な記事の選び方

日本語版のウィキペディア(Wikipedia)トップページには、「秀逸な記事より」のコラムが掲載されています。
英語版でそれに相当するのは、Today's featured articleです。
英語版のfeatured article も実態は「秀逸な記事」で日本語版と同じなのですが、
featured article には「秀逸な」というニュアンスはほとんどありません。
日本語に普通に訳せば「特集記事」ですし、ニュアンスとしては「見ものの記事」といったところでしょうか。
featured article と控えめな表現を用いているのに、
その選定はかなりシビアに行われています。
ある事柄に関心と識見を有する人たちが、テーマごとに「査読団」を作っていて、
十分な精査が行われています。
だから、featured article は高品質の記事となっています。

一方、日本語版の「秀逸な記事」の選定はどうでしょうか。
日本のルールはこちらです。
基本は、なんと3票です。
3人が「秀逸な記事」にすることに賛成すれば選定されますし、3人が反対すれば選ばれません。
この基本をベースにもう少し細かいルールが決められています。
実際の選定投票では、賛成・反対ともそれなりの意見は出されているのですが、
なんともさびしい実態といわなくてはなりません。
このようにして、選定された記事が必ずしも秀逸でないことはいうまでもありません。

必ずしも秀逸とは限らない記事に、秀逸と銘打ってしまう日本語版。
これでは、日本語版ウキィペディアの信頼性にとって逆効果となるのではないでしょうか。
選定方法を再検討するか、「秀逸な記事」の名称を再検討する必要があると思います。


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